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日本遺産ストーリー

かさましこ
兄弟産地が紡ぐ〝焼き物語〟

日本遺産とは?

日本には、地域固有の歴史・風土に根ざして受け継がれてきた様々な伝統、風習・文化などがあります。そして、このような地域の歴史的魅力や特色は、有形・無形の文化財として今に受け継がれています。これらの文化財によって形成された、日本の文化や伝統を物語る“ストーリー”を国が認定したものが「日本遺産」です。

この制度は文化庁が平成27年度に創設したもので、現在までに認定された日本遺産は104件にものぼります。これまでにも、茨城県で1件、栃木県で3件の日本遺産が登録されています。そしてこの度、茨城県笠間市と栃木県益子町が連携したストーリー「かさましこ~兄弟産地が紡ぐ“焼き物語”~」が令和2年度日本遺産に認定されました。

「かさましこ」の美意識

北関東地方に笠間市(茨城県)と益子町(栃木県)があります。この2つ名前を組み合わせから生まれたのが「かさましこ」。笠間市と益子町は山々を隔てて近接しており、古代より須恵器(朝鮮半島から伝わった硬質の土器)を作るために必要となる粘土・水・燃料の木材に恵まれていました。この二つの地域には、8世紀~10世紀頃の古い窯跡の出土品に共通した特徴がみられます。そのため、同じ製陶技術を有していたことがうかがえます。

時代が下り中世になると、宇都宮氏が登場します。宇都宮氏は11世紀に下野国(現在の栃木県)を拠点として、その後の約500年間、笠間と益子の地を治めていました。宇都宮氏は武士としてだけではなく、京都の貴族とつながりを持ち、宗教や文化にも大きな成果をあげました。極楽浄土を模した庭園がある地蔵院や、優れた技術をもつ職人につくらせた仏像(木造千手観音立像)などから、京都の影響を受けた強い信仰心がうかがえます。また、京都・鎌倉と並んで日本三大歌壇とも呼ばれる”宇都宮歌壇”を作り歌人たちの社会を形成していたことからも、この地まで文化的豊かさが及んでいたことがわかります。

この時代に京都・鎌倉からもたらされた文化や芸術は、その後の笠間焼や益子焼の美しさに影響を与えています。

兄・笠間焼と弟・益子焼の誕生

16世紀後半に宇都宮氏が豊臣秀吉による改易で処罰されると、笠間と益子はそれぞれ別の歴史を歩むことになります。ところが、笠間と益子に再び接点が現れます。

18世紀後半に笠間藩上箱田村の役人である久野半右衛門が上箱田村で焼き物を始めます。これが後の笠間焼です。良質の粘土がこの地でとれたことが、窯焼きを始めた理由とされています。その後、19世紀後半には間黒村の凰台院という寺で教育を受けていた大塚啓三郎が久野半右衛門の窯で焼き物作りと出合いました。ここで陶器の作り方を学び、後に益子で築いた窯が益子焼の始まりとなります。8世紀に同じ技術を有していた2つの地域「かさましこ」が1,000年の時を経て再び製陶という同じ道を歩み始めたのです。

明治時代になると、笠間と益子それぞれで焼き物の組合が設立されました。笠間焼と益子焼の特約を結び、出荷する規格を統一し、連携して支え合いながら関東の焼き物作りの地として発展しました。明治から大正にかけて壺、水甕、すり鉢、土鍋などの日用品を製造していました。これらの製品は丈夫で使いやすく、値段も安かったため、東京を中心に東日本全域に流通し成功をおさめました。

「かさましこ」陶芸に訪れる作風の変化

しかし、順調な焼き物の経営は長くは続きませんでした。様々な産業の発展と生活様式の変化により、「かさましこ」の窯元は生活の危機を何度も迎えます。このような中、笠間と益子の焼き物にそれぞれ作風の変化が起こります。

最初に新たな変化が起きたのは益子です。これまでの工芸の世界は、華美な装飾を施した観賞用の作品が主流でした。しかし、昭和初期に日常の生活道具には美術品にも負けない美しさがあり、それを見出そうとする民藝運動が拡がりました。濱田庄司(後の人間国宝)を中心とし、益子で芸術の要素が加わった民芸品の陶器が作られるようになっていきました。昭和20~30 年代になると、民藝運動は窯業だけにとどまらず、染色、木工、金工などの職人たちにも広がっていきました。職人たちの素朴で健全な心と伝統に裏付けされた確かな技術から、時代に合わせた多くの新しい作品が生み出されました。 日常の美を感じさせる民藝を味わうなら、濱田庄司記念益子参考館がおすすめです。ここでは、濱田庄司の自宅の一部を活用する形で1977年に開館し、濱田が世界中から収集した陶磁器、漆器、木工、金工、家具、染織などを展示・公開しています。

一方、笠間では戦後に窯業地として存続の危機に陥ると、茨城県が窯業の学校である窯業指導所を設立しました。ここでは、よりデザイン性を重視した陶器の制作が進められました。陶磁器の表面に付着したガラスの層である釉薬の改良や粘土の研究に加え、デザイナーなどによる指導が行われました。さらに、茨城県内外から才能ある陶芸家を招くために、行政と民間が協力して窯業団地や笠間芸術の村までもがつくられました。この取り組みにより、笠間には陶芸家の他に画家、彫刻家、染物職人など多くの芸術家が移住し、地元の職人と互いに刺激し合いながら交流を深めていました。こうした活動の中から、斬新な表現や技法が誕生し、松井康成(後の人間国宝)は「練上」というさまざまな色の粘土をつみ重ねたりはり合わせる技法で笠間焼を芸術の域まで高めました。 陶芸家たちの活動は地元にも影響を与えました。笠間稲荷神社では神社の敷地内にある商店街(仲見世)や門前町などで笠間焼を販売しました。そして笠間焼の歴史資料を保存・公開するために神社の敷地内に美術館を建てたりするなど支援を行いました。

陶文化を創造、進化する「かさましこ」

「かさましこ」は次第に芸術の街となっていきます。街並みには四季を表現した雅やかな陶製の壁があり、散策路にはリズムを生み出す波型の陶板タイルがあります。日常の中にアートが溶け込んでいるのです。工房では陶芸家が土と真剣に向き合っており、電動ロクロが回る音が工房内に響き、凛とした雰囲気が感じられます。

かつて、暮らしを支える日用品を製造していた「かさましこ」は、現在、デザイン性や機能性を追求した陶器や親しみやすいポップなオブジェなどを制作するようになりました。生活だけでなく、暮らしに潤いを与える窯業地へと進化していったのです。時代の需要を敏感に感じ取り、新たな変化も積極的に受け入れる焼き物産地の挑戦が、表現の多様性を育んでいます。

芸術性あふれる陶の郷を求めて全国から陶芸家が集まり、今では600名を超えるまでになりました。ここでは、自由で開放された焼き物の制作環境を体感・見学できるオープンアトリエや、窯元や陶芸家の指導による焼き物の制作体験を通じて作り手の美しい生活造形を追求する想いや技に触れることができます。また、販売店やギャラリー、カフェ、レストランが軒を連ね、窯元や陶芸家たちがつくる器や生活雑貨、オブジェなどの美しい生活造形が食卓や空間を彩り、訪れる人を楽しませてくれます。

「かさましこ」では互いの地域の陶芸家が合同で個展を開いたり、東日本大震災によって崩壊した濱田庄司ゆかりの登り窯を復活させたり、全国の陶芸家たちが一緒に窯焚きを行ったりと、近年「かさましこ」の連携は官庁と民間を問わずますます進み、絆を深めています。

こうして、兄弟焼き物の笠間焼・益子焼はつながり合い、暮らしに寄り添う独自の陶文化を形成しているのです。

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