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かさましこ 兄弟産地が紡ぐ〝焼き物語〟
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兄弟産地が紡ぐ〝焼き物語〟
日本遺産 認定!
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かさましこ~兄弟産地が紡ぐ“焼き物語”~
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【笠間焼誕生250年記念】笠間焼サブスクリプションサービス
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日本遺産認定記念「かさましこ推奨店」始めます!
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日本遺産認定記念「かさましこ推奨店」始めます!
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開館30周年記念 益子日帰り 旅する染色家 芹沢銈介
2023.10.22~2024.1.8
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開館30周年記念 益子日帰り 旅する染色家 芹沢銈介
2023.10.22~2024.1.8
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【北大路魯山人旧居】春風萬里荘 葺き替えプロジェクト
2023.10.1~12.20
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開館30周年記念 益子日帰り 旅する染色家 芹沢銈介
2023.10.22~2024.1.8
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2023.10.1~12.20
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END
益子国際工芸交流事業2022 益子とリーチ工房 次の100年へ 榎田智+岩下宗晶+ルロフ・ウィス展
2023.7.15~11.6
イベント
【北大路魯山人旧居】春風萬里荘 葺き替えプロジェクト
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2023.7.15~11.6
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開館30周年記念 陶芸家 和田的展 -光と陰-
2023.7.30~10.9
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2023.7.15~11.6
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2023.7.30~10.9
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コラム
かさましこの日本遺産に会いに行ってきました!
コース
兄・笠間をめぐる?弟・益子をめぐる?
構成文化財
日本遺産に登録されている構成文化財をご紹介します。
笠間氏累代の墓地
笠間氏は鎌倉時代から約380年間、18代にわたって笠間の地を治めました。墓地にある大小さまざまな石碑18基は、その領主たちの墓石と考えられています。それぞれの領主の名前は不明ですが、正面中央にある欠損部分を持つ宝篋印塔が笠間氏初代である笠間時朝のものとされています。墓地は昭和9年(1934)に笠…
三所神社
建長2年(1250)笠間時朝により創建された神社です。宇都宮の二荒山大明神の分霊を祀っており、笠間城の鎮守を目的とした笠間の総鎮守社です。文明9年(1477)笠間城主笠間綱久が三所神社の修築完成を祈願して四神旗を寄進したとされます。笠間城は鎌倉時代に笠間時朝が築いてから約750年間、歴代の笠間領…
笠間城櫓
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
笠間城跡(笠間城櫓・城門)
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
三所神社
建長2年(1250)笠間時朝により創建された神社です。宇都宮の二荒山大明神の分霊を祀っており、笠間城の鎮守を目的とした笠間の総鎮守社です。文明9年(1477)笠間城主笠間綱久が三所神社の修築完成を祈願して四神旗を寄進したとされます。笠間城は鎌倉時代に笠間時朝が築いてから約750年間、歴代の笠間領…
笠間城櫓
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
笠間城跡(笠間城櫓・城門)
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
西明寺(三重塔、楼門、本堂内厨子)
西明寺は天平9年(737)の創建と伝えられています。真言宗豊山派で、十一面観音を本尊とする由緒ある寺です。境内には宇都宮氏の家臣である益子氏が建立した三重塔、楼門、本堂内厨子があり、これらは国の重要文化財に指定されています。また益子焼の祖、大塚啓三郎の碑もあります。 ナレーション付…
笠間城櫓
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
笠間城跡(笠間城櫓・城門)
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
西明寺(三重塔、楼門、本堂内厨子)
西明寺は天平9年(737)の創建と伝えられています。真言宗豊山派で、十一面観音を本尊とする由緒ある寺です。境内には宇都宮氏の家臣である益子氏が建立した三重塔、楼門、本堂内厨子があり、これらは国の重要文化財に指定されています。また益子焼の祖、大塚啓三郎の碑もあります。 ナレーション付…
宇都宮家の墓所
宇都宮家の3代目にあたる宇都宮朝綱が整備した、尾羽寺に残る宇都宮家代々の墓です。豊臣秀吉による改易でお家取り潰しの憂き目に遭いますが、その後も当主が祀られ続け、初代宇都宮宋円から33代宇都宮政綱までが眠っています。石碑が33基(うち29基は五輪塔)あり、県の有形文化財に指定されています。 …
笠間城跡(笠間城櫓・城門)
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
西明寺(三重塔、楼門、本堂内厨子)
西明寺は天平9年(737)の創建と伝えられています。真言宗豊山派で、十一面観音を本尊とする由緒ある寺です。境内には宇都宮氏の家臣である益子氏が建立した三重塔、楼門、本堂内厨子があり、これらは国の重要文化財に指定されています。また益子焼の祖、大塚啓三郎の碑もあります。 ナレーション付…
宇都宮家の墓所
宇都宮家の3代目にあたる宇都宮朝綱が整備した、尾羽寺に残る宇都宮家代々の墓です。豊臣秀吉による改易でお家取り潰しの憂き目に遭いますが、その後も当主が祀られ続け、初代宇都宮宋円から33代宇都宮政綱までが眠っています。石碑が33基(うち29基は五輪塔)あり、県の有形文化財に指定されています。 …
益子古窯跡群(栗生窯跡群(倉見沢窯跡))
古代から益子町は笠間市とともに、須恵器(朝鮮半島から伝わった硬質の土器)作りに必要となる粘土、水や燃料となる木材に恵まれた土地でした。現在も、8世紀~10世紀にかけて使われていた13 基の窯跡が残されています。窯跡は3群に分かれており、西山・本沼窯跡群、原・境窯跡群、栗生窯跡群で須恵器の…
西明寺(三重塔、楼門、本堂内厨子)
西明寺は天平9年(737)の創建と伝えられています。真言宗豊山派で、十一面観音を本尊とする由緒ある寺です。境内には宇都宮氏の家臣である益子氏が建立した三重塔、楼門、本堂内厨子があり、これらは国の重要文化財に指定されています。また益子焼の祖、大塚啓三郎の碑もあります。 ナレーション付…
宇都宮家の墓所
宇都宮家の3代目にあたる宇都宮朝綱が整備した、尾羽寺に残る宇都宮家代々の墓です。豊臣秀吉による改易でお家取り潰しの憂き目に遭いますが、その後も当主が祀られ続け、初代宇都宮宋円から33代宇都宮政綱までが眠っています。石碑が33基(うち29基は五輪塔)あり、県の有形文化財に指定されています。 …
益子古窯跡群(栗生窯跡群(倉見沢窯跡))
古代から益子町は笠間市とともに、須恵器(朝鮮半島から伝わった硬質の土器)作りに必要となる粘土、水や燃料となる木材に恵まれた土地でした。現在も、8世紀~10世紀にかけて使われていた13 基の窯跡が残されています。窯跡は3群に分かれており、西山・本沼窯跡群、原・境窯跡群、栗生窯跡群で須恵器の…
益子参考館細工場
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
宇都宮家の墓所
宇都宮家の3代目にあたる宇都宮朝綱が整備した、尾羽寺に残る宇都宮家代々の墓です。豊臣秀吉による改易でお家取り潰しの憂き目に遭いますが、その後も当主が祀られ続け、初代宇都宮宋円から33代宇都宮政綱までが眠っています。石碑が33基(うち29基は五輪塔)あり、県の有形文化財に指定されています。 …
益子古窯跡群(栗生窯跡群(倉見沢窯跡))
古代から益子町は笠間市とともに、須恵器(朝鮮半島から伝わった硬質の土器)作りに必要となる粘土、水や燃料となる木材に恵まれた土地でした。現在も、8世紀~10世紀にかけて使われていた13 基の窯跡が残されています。窯跡は3群に分かれており、西山・本沼窯跡群、原・境窯跡群、栗生窯跡群で須恵器の…
益子参考館細工場
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
益子参考館上台(旧濱田庄司邸離れ)
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
益子古窯跡群(栗生窯跡群(倉見沢窯跡))
古代から益子町は笠間市とともに、須恵器(朝鮮半島から伝わった硬質の土器)作りに必要となる粘土、水や燃料となる木材に恵まれた土地でした。現在も、8世紀~10世紀にかけて使われていた13 基の窯跡が残されています。窯跡は3群に分かれており、西山・本沼窯跡群、原・境窯跡群、栗生窯跡群で須恵器の…
益子参考館細工場
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
益子参考館上台(旧濱田庄司邸離れ)
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
日下田藍染工房(日下田邸(染色工房併用)・藍染め甕場・草木染)
江戸時代から続く染物屋です。かつて庶民の衣類の約8割は藍染でした。藍は「ジャパン・ブルー」と呼ばれ、その色や染法は世界でも高い評価があります。日下田藍染工房では民藝運動に共感し、民藝調の藍染めをはじめとする天然染料を用いた染色(草木染)の作品を現在も作り続けています。県の有形文化…
益子参考館細工場
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
益子参考館上台(旧濱田庄司邸離れ)
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
日下田藍染工房(日下田邸(染色工房併用)・藍染め甕場・草木染)
江戸時代から続く染物屋です。かつて庶民の衣類の約8割は藍染でした。藍は「ジャパン・ブルー」と呼ばれ、その色や染法は世界でも高い評価があります。日下田藍染工房では民藝運動に共感し、民藝調の藍染めをはじめとする天然染料を用いた染色(草木染)の作品を現在も作り続けています。県の有形文化…
笠間氏累代の墓地
笠間氏は鎌倉時代から約380年間、18代にわたって笠間の地を治めました。墓地にある大小さまざまな石碑18基は、その領主たちの墓石と考えられています。それぞれの領主の名前は不明ですが、正面中央にある欠損部分を持つ宝篋印塔が笠間氏初代である笠間時朝のものとされています。墓地は昭和9年(1934)に笠…
益子参考館上台(旧濱田庄司邸離れ)
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
日下田藍染工房(日下田邸(染色工房併用)・藍染め甕場・草木染)
江戸時代から続く染物屋です。かつて庶民の衣類の約8割は藍染でした。藍は「ジャパン・ブルー」と呼ばれ、その色や染法は世界でも高い評価があります。日下田藍染工房では民藝運動に共感し、民藝調の藍染めをはじめとする天然染料を用いた染色(草木染)の作品を現在も作り続けています。県の有形文化…
笠間氏累代の墓地
笠間氏は鎌倉時代から約380年間、18代にわたって笠間の地を治めました。墓地にある大小さまざまな石碑18基は、その領主たちの墓石と考えられています。それぞれの領主の名前は不明ですが、正面中央にある欠損部分を持つ宝篋印塔が笠間氏初代である笠間時朝のものとされています。墓地は昭和9年(1934)に笠…
三所神社
建長2年(1250)笠間時朝により創建された神社です。宇都宮の二荒山大明神の分霊を祀っており、笠間城の鎮守を目的とした笠間の総鎮守社です。文明9年(1477)笠間城主笠間綱久が三所神社の修築完成を祈願して四神旗を寄進したとされます。笠間城は鎌倉時代に笠間時朝が築いてから約750年間、歴代の笠間領…
日下田藍染工房(日下田邸(染色工房併用)・藍染め甕場・草木染)
江戸時代から続く染物屋です。かつて庶民の衣類の約8割は藍染でした。藍は「ジャパン・ブルー」と呼ばれ、その色や染法は世界でも高い評価があります。日下田藍染工房では民藝運動に共感し、民藝調の藍染めをはじめとする天然染料を用いた染色(草木染)の作品を現在も作り続けています。県の有形文化…
笠間氏累代の墓地
笠間氏は鎌倉時代から約380年間、18代にわたって笠間の地を治めました。墓地にある大小さまざまな石碑18基は、その領主たちの墓石と考えられています。それぞれの領主の名前は不明ですが、正面中央にある欠損部分を持つ宝篋印塔が笠間氏初代である笠間時朝のものとされています。墓地は昭和9年(1934)に笠…
三所神社
建長2年(1250)笠間時朝により創建された神社です。宇都宮の二荒山大明神の分霊を祀っており、笠間城の鎮守を目的とした笠間の総鎮守社です。文明9年(1477)笠間城主笠間綱久が三所神社の修築完成を祈願して四神旗を寄進したとされます。笠間城は鎌倉時代に笠間時朝が築いてから約750年間、歴代の笠間領…
笠間城櫓
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
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