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かさましこ 兄弟産地が紡ぐ〝焼き物語〟
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かさましこ
兄弟産地が紡ぐ〝焼き物語〟
日本遺産 認定!
「かさましこ」とは?
かさましこ~兄弟産地が紡ぐ“焼き物語”~
日本遺産に認定されたストーリー
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日本遺産認定記念「かさましこ推奨店」始めます!
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「かさましこPR動画」をYouTubeで公開しました。
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アーティスト・イン・レジデンス in 益子 ターニャ・ヘルマン+太田剛速展
2023.3.25~6.18
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「かさましこPR動画」をYouTubeで公開しました。
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アーティスト・イン・レジデンス in 益子 ターニャ・ヘルマン+太田剛速展
2023.3.25~6.18
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第23回 かさまの陶雛 「桃宴」
2023.1.25~3.3
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2023.3.25~6.18
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コラム
かさましこの日本遺産に会いに行ってきました!
コース
兄・笠間をめぐる?弟・益子をめぐる?
構成文化財
日本遺産に登録されている構成文化財をご紹介します。
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濱田庄司作品
濱田庄司は1894年に神奈川県川崎市で生まれました。河井寛次郎や柳宋悦とも親交があり、民藝運動の中心的人物となりました。作品づくりの拠点であった益子の土地の土と釉薬を用いた作品が多くあります。濱田が得意とした流掛や赤絵、塩釉などの技法や、「黍文」と呼ばれる独自の文様を施した作品は、ど…
NEW
益子参考館上台(旧濱田庄司邸離れ)
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
NEW
益子参考館細工場
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
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益子参考館登り窯
益子参考館内には登り窯が2基あります。1基は濱田庄司が愛した釉薬の一種である塩釉専用の窯で、もう1基は東日本大震災で崩れてしまいましたが、平成27年に復活し、以後3年に1度、「濱田庄司登り窯復活プロジェクト」として窯焚きイベントを開催し、笠間と益子の陶芸家の絆を深めています。この登り窯の…
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益子参考館上台(旧濱田庄司邸離れ)
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
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益子参考館細工場
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
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益子参考館登り窯
益子参考館内には登り窯が2基あります。1基は濱田庄司が愛した釉薬の一種である塩釉専用の窯で、もう1基は東日本大震災で崩れてしまいましたが、平成27年に復活し、以後3年に1度、「濱田庄司登り窯復活プロジェクト」として窯焚きイベントを開催し、笠間と益子の陶芸家の絆を深めています。この登り窯の…
笠間氏累代の墓地
笠間氏は鎌倉時代から約380年間、18代にわたって笠間の地を治めました。墓地にある大小さまざまな石碑18基は、その領主たちの墓石と考えられています。それぞれの領主の名前は不明ですが、正面中央にある欠損部分を持つ宝篋印塔が笠間氏初代である笠間時朝のものとされています。墓地は昭和9年(1934)に笠…
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益子参考館細工場
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
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益子参考館登り窯
益子参考館内には登り窯が2基あります。1基は濱田庄司が愛した釉薬の一種である塩釉専用の窯で、もう1基は東日本大震災で崩れてしまいましたが、平成27年に復活し、以後3年に1度、「濱田庄司登り窯復活プロジェクト」として窯焚きイベントを開催し、笠間と益子の陶芸家の絆を深めています。この登り窯の…
笠間氏累代の墓地
笠間氏は鎌倉時代から約380年間、18代にわたって笠間の地を治めました。墓地にある大小さまざまな石碑18基は、その領主たちの墓石と考えられています。それぞれの領主の名前は不明ですが、正面中央にある欠損部分を持つ宝篋印塔が笠間氏初代である笠間時朝のものとされています。墓地は昭和9年(1934)に笠…
三所神社
建長2年(1250)笠間時朝により創建された神社です。宇都宮の二荒山大明神の分霊を祀っており、笠間城の鎮守を目的とした笠間の総鎮守社です。文明9年(1477)笠間城主笠間綱久が三所神社の修築完成を祈願して四神旗を寄進したとされます。笠間城は鎌倉時代に笠間時朝が築いてから約750年間、歴代の笠間領…
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益子参考館登り窯
益子参考館内には登り窯が2基あります。1基は濱田庄司が愛した釉薬の一種である塩釉専用の窯で、もう1基は東日本大震災で崩れてしまいましたが、平成27年に復活し、以後3年に1度、「濱田庄司登り窯復活プロジェクト」として窯焚きイベントを開催し、笠間と益子の陶芸家の絆を深めています。この登り窯の…
笠間氏累代の墓地
笠間氏は鎌倉時代から約380年間、18代にわたって笠間の地を治めました。墓地にある大小さまざまな石碑18基は、その領主たちの墓石と考えられています。それぞれの領主の名前は不明ですが、正面中央にある欠損部分を持つ宝篋印塔が笠間氏初代である笠間時朝のものとされています。墓地は昭和9年(1934)に笠…
三所神社
建長2年(1250)笠間時朝により創建された神社です。宇都宮の二荒山大明神の分霊を祀っており、笠間城の鎮守を目的とした笠間の総鎮守社です。文明9年(1477)笠間城主笠間綱久が三所神社の修築完成を祈願して四神旗を寄進したとされます。笠間城は鎌倉時代に笠間時朝が築いてから約750年間、歴代の笠間領…
笠間城櫓
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
笠間氏累代の墓地
笠間氏は鎌倉時代から約380年間、18代にわたって笠間の地を治めました。墓地にある大小さまざまな石碑18基は、その領主たちの墓石と考えられています。それぞれの領主の名前は不明ですが、正面中央にある欠損部分を持つ宝篋印塔が笠間氏初代である笠間時朝のものとされています。墓地は昭和9年(1934)に笠…
三所神社
建長2年(1250)笠間時朝により創建された神社です。宇都宮の二荒山大明神の分霊を祀っており、笠間城の鎮守を目的とした笠間の総鎮守社です。文明9年(1477)笠間城主笠間綱久が三所神社の修築完成を祈願して四神旗を寄進したとされます。笠間城は鎌倉時代に笠間時朝が築いてから約750年間、歴代の笠間領…
笠間城櫓
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
笠間城跡(笠間城櫓・城門)
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
三所神社
建長2年(1250)笠間時朝により創建された神社です。宇都宮の二荒山大明神の分霊を祀っており、笠間城の鎮守を目的とした笠間の総鎮守社です。文明9年(1477)笠間城主笠間綱久が三所神社の修築完成を祈願して四神旗を寄進したとされます。笠間城は鎌倉時代に笠間時朝が築いてから約750年間、歴代の笠間領…
笠間城櫓
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
笠間城跡(笠間城櫓・城門)
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
西明寺(三重塔、楼門、本堂内厨子)
西明寺は天平9年(737)の創建と伝えられています。真言宗豊山派で、十一面観音を本尊とする由緒ある寺です。境内には宇都宮氏の家臣である益子氏が建立した三重塔、楼門、本堂内厨子があり、これらは国の重要文化財に指定されています。また益子焼の祖、大塚啓三郎の碑もあります。 ナレーション付…
笠間城櫓
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
笠間城跡(笠間城櫓・城門)
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
西明寺(三重塔、楼門、本堂内厨子)
西明寺は天平9年(737)の創建と伝えられています。真言宗豊山派で、十一面観音を本尊とする由緒ある寺です。境内には宇都宮氏の家臣である益子氏が建立した三重塔、楼門、本堂内厨子があり、これらは国の重要文化財に指定されています。また益子焼の祖、大塚啓三郎の碑もあります。 ナレーション付…
宇都宮家の墓所
宇都宮家の3代目にあたる宇都宮朝綱が整備した、尾羽寺に残る宇都宮家代々の墓です。豊臣秀吉による改易でお家取り潰しの憂き目に遭いますが、その後も当主が祀られ続け、初代宇都宮宋円から33代宇都宮政綱までが眠っています。石碑が33基(うち29基は五輪塔)あり、県の有形文化財に指定されています。 …
笠間城跡(笠間城櫓・城門)
承久元年(1219)に笠間時朝が佐白山周辺に築いたといわれる山城です。戦国時代末期まで笠間氏が18代にわたり笠間を治めました。笠間氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、出兵しなかったため、宇都宮氏により滅ぼされました。江戸時代、笠間藩主・牧野貞直のときに久野陶園など陶器職…
西明寺(三重塔、楼門、本堂内厨子)
西明寺は天平9年(737)の創建と伝えられています。真言宗豊山派で、十一面観音を本尊とする由緒ある寺です。境内には宇都宮氏の家臣である益子氏が建立した三重塔、楼門、本堂内厨子があり、これらは国の重要文化財に指定されています。また益子焼の祖、大塚啓三郎の碑もあります。 ナレーション付…
宇都宮家の墓所
宇都宮家の3代目にあたる宇都宮朝綱が整備した、尾羽寺に残る宇都宮家代々の墓です。豊臣秀吉による改易でお家取り潰しの憂き目に遭いますが、その後も当主が祀られ続け、初代宇都宮宋円から33代宇都宮政綱までが眠っています。石碑が33基(うち29基は五輪塔)あり、県の有形文化財に指定されています。 …
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濱田庄司作品
濱田庄司は1894年に神奈川県川崎市で生まれました。河井寛次郎や柳宋悦とも親交があり、民藝運動の中心的人物となりました。作品づくりの拠点であった益子の土地の土と釉薬を用いた作品が多くあります。濱田が得意とした流掛や赤絵、塩釉などの技法や、「黍文」と呼ばれる独自の文様を施した作品は、ど…
西明寺(三重塔、楼門、本堂内厨子)
西明寺は天平9年(737)の創建と伝えられています。真言宗豊山派で、十一面観音を本尊とする由緒ある寺です。境内には宇都宮氏の家臣である益子氏が建立した三重塔、楼門、本堂内厨子があり、これらは国の重要文化財に指定されています。また益子焼の祖、大塚啓三郎の碑もあります。 ナレーション付…
宇都宮家の墓所
宇都宮家の3代目にあたる宇都宮朝綱が整備した、尾羽寺に残る宇都宮家代々の墓です。豊臣秀吉による改易でお家取り潰しの憂き目に遭いますが、その後も当主が祀られ続け、初代宇都宮宋円から33代宇都宮政綱までが眠っています。石碑が33基(うち29基は五輪塔)あり、県の有形文化財に指定されています。 …
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濱田庄司作品
濱田庄司は1894年に神奈川県川崎市で生まれました。河井寛次郎や柳宋悦とも親交があり、民藝運動の中心的人物となりました。作品づくりの拠点であった益子の土地の土と釉薬を用いた作品が多くあります。濱田が得意とした流掛や赤絵、塩釉などの技法や、「黍文」と呼ばれる独自の文様を施した作品は、ど…
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益子参考館上台(旧濱田庄司邸離れ)
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
宇都宮家の墓所
宇都宮家の3代目にあたる宇都宮朝綱が整備した、尾羽寺に残る宇都宮家代々の墓です。豊臣秀吉による改易でお家取り潰しの憂き目に遭いますが、その後も当主が祀られ続け、初代宇都宮宋円から33代宇都宮政綱までが眠っています。石碑が33基(うち29基は五輪塔)あり、県の有形文化財に指定されています。 …
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濱田庄司作品
濱田庄司は1894年に神奈川県川崎市で生まれました。河井寛次郎や柳宋悦とも親交があり、民藝運動の中心的人物となりました。作品づくりの拠点であった益子の土地の土と釉薬を用いた作品が多くあります。濱田が得意とした流掛や赤絵、塩釉などの技法や、「黍文」と呼ばれる独自の文様を施した作品は、ど…
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益子参考館上台(旧濱田庄司邸離れ)
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
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益子参考館細工場
益子参考館上台は来客者の宿泊所とするために、益子町の高野家母屋を昭和17年(1942)に解体して移築したものです。もとは濱田庄司邸の離れで、完成までに約10年の歳月を要したといわれています。民藝の趣向をこらした意匠が施され、濱田庄司が益子の職人に作らせた階段箪笥などの調度品の数々が置かれて…
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