facebook twitter instagram Line facebook

コラム

縁よ再び 巡るかさましこ兄弟産地物語 vol.1

コラム
縁よ再び 巡るかさましこ兄弟産地物語 vol.1
自宅に古手の益子焼の急須がある。
以前、当地の古道具屋で買い求めた物なのだが、ぽってりとした形や表と裏で表情が違うところが魅力的で、使うたびにニヤニヤしている。
その益子焼には「兄弟産地」と言われる窯があるという。県境の笠間市で開かれた笠間焼のことだ。焼き物にそれほど明るくない人間からすると「兄弟産地」という言葉自体、初めて聞く言葉だ。
「かさま」と「ましこ」の兄弟産地を合わせて「かさましこ」と最近では言うらしい。なんだか響きも素敵じゃないか。
せっかく益子焼の急須を使っているのだし、その歴史を知れば、ますます我が急須に愛着が湧くのではないか。
そこでわたしは、かさましこの兄弟産地を知る旅に出た。



笠間といえば、笠間稲荷神社


かさましこの焼き物の歴史を知る旅に出たはずなのだが、笠間市に足を運んだならば一度は訪れてみたいのが日本三大稲荷と言われる笠間稲荷神社である。
ぶらぶらと参道を歩き、笠間が発祥の地だと言われるそば稲荷を美味しそうだなと横目で眺めつつ、笠間稲荷神社に到着した。
実はここ、笠間焼発祥の地である久野陶園を仕法窯として後押しした、笠間藩主牧野貞直はじめ歴代笠間藩主が篤く崇敬した神社でもある。
創建は古く、社伝によれば白雉2年(651)。農業、工業、商業、水産業をはじめとする、ありとあらゆる殖産興業の守護神として、笠間市だけでなく広く全国の人たちから崇敬されてきた。
特に長い歴史の中でも江戸時代、前述の笠間藩主牧野家によって境内地や祭祀具などが寄進され大切にされたのである。
藩主として、自分の領地に暮らす民の仕事が栄え、食うに困らず、皆がつつがなく暮らせるよう笠間稲荷の神にお願いしていたのかもしれない、だとしたら良い藩主だな、などと思いながら境内を歩く。
それではわたしもと、旅の安全を拝殿でお願いしたあと、拝殿右手の小道を奥に進む。
そこに現れる御本殿。



御本殿は江戸時代末期安政・万延年間(1854〜1860)の再建で、本瓦型銅板葺の総欅造りの大変立派なものなのであるが、その周囲側面に施された彫刻意匠に言葉を失ってしまった。
緻密で精巧な彫刻が、本殿をびっしりと取り巻いていたのである。それらはまるで本殿を守るかのように、躍動する龍や唐獅子が生き生きと彫られていた。
神職の上野さんによれば、12年の年月をかけて当時の名匠と言われた後藤縫ノ助が彫った「三頭八方睨みの龍」と「牡丹唐獅子」、弥勒寺音八と諸貫万五郎が彫った「蘭亭曲水の宴」だという。特に、「蘭亭曲水の宴」は7面に渡って彫られており、流れる水を彫ることで、本殿を火事から守ろうという意図があったのかもしれないと上野さんは話す。
だとしたらなんて粋なんだろう。
笠間稲荷神社の御祭神に守られて民は暮らし、彫物を施すということで、本殿を守ろうとした民がいる。あくまで想像でしかないが、心がほわっと暖かくなる。
この日、参拝する人たちは大勢いたが、奥の本殿まで来る人はほとんどいなかった。これは非常に残念なことだ。
「笠間稲荷神社に来たならば、お参りを済ませたのちには奥の本殿に施された彫刻を是非とも見てほしい」
と、心の底から思う。
もちろん御祭神は、そんな小さなことは気にしないと思うのだけれど。



鳳台院と益子焼の陶祖


笠間稲荷神社で目を見張る彫刻を拝見した後に訪れたのは、曹洞宗のお寺である鳳台院。世界最大級の達磨大師像が鎮座する山寺である。
なぜここに足を運んだかといえば、目的は2つ。
一つ目は笠間稲荷神社のような躍動感ある彫物とはまた違った美しさがある山門の彫物が見たい。
二つ目は益子焼の陶祖、大塚啓三郎と鳳台院は深い関係があるとのことなので、その真相を知りたい。
陶祖の話を副住職の内山さんに伺う前にまずは山門を拝見することにした。



現在屋根は銅板の切妻造りに修復されているが、造られた当時は茅葺だったという。さぞかし趣のある山門だったことだろう。
総欅で造られた四脚の門の柱には、上から下まで細かくて美しい浮彫りが施されており、名もなき職人の技が冴え渡っていた。
門を行ったり来たりしながらあちこち観察しているとあることに気がつく。上部に「石」と彫られているのである。
なぜここに、「石」とあるのか。
内山さんによれば、山門の彫物は笠間市に暮らした石井家からの寄進だったそうで、証として石井家の家紋が彫られたという。今でも寺社仏閣に寄進した際には名前を書くことがあるが、同様に、模様の一部として家紋を彫っていたというわけである。これも職人のなせる技。



さて次はお待ちかねの益子焼の始祖と鳳台院との関係である。
なんでも鳳台院21世の雄山大周和尚と同郷という縁で、のちに益子焼の始祖となる大塚啓三郎が鳳台院の寺子屋に通っていたという。
「雄山大周和尚は久野陶園さんによく足を運んでいたようで、その時に大塚さんを久野さんに紹介したという想像もできますね。もしかするとそのあたりの詳しい話は久野陶園さんがご存知かもしれませんよ」
と、内山さん。
なんだか面白いことになってきた。
それならば笠間焼発祥の窯元、久野陶園さんで話を聞かねばなるまいと、お邪魔することにした。



久野陶園で大塚啓三郎を追体験する


笠間市と益子町を繋ぐ県道1号線から分かれる脇道を行った先に久野陶園はある。現在窯は伊藤慶子さんに引き継がれ、笠間焼発祥の地で陶芸の体験もできるという。それは是非とも体験してみたい。
と、その前に、伊藤さんから笠間焼発祥に関わる話を聞くことにした。



江戸中期の安永年間(1772-80)、上箱田村(現笠間市箱田)で名主だった久野半右衛門道延が、信楽からやってきた流れ陶工、長右衛門から焼き物の技術を教わり窯を開いたのが笠間焼の始まりだ。久野半右衛門道延は伊藤さんのご先祖ということになるのだが、先見の明があったということになる。
当時は腕さえあればあちこちの焼き物産地を渡り歩く陶工もいたそうで、長右衛門もその1人だったのかもしれないと伊藤さんは言う。
そうして久野陶園は上箱田村にやってきた長右衛門と共に、登窯を新たに築き、のちに仕法窯として笠間藩主牧野貞直によって保護され、産業として確立したのである。
ところで、益子焼陶祖の大塚啓三郎との関係はどう伝わっているのだろう。
「なんでも、鳳台院の和尚さんが焼き物好きで、大塚啓三郎を連れて、うちによく来ていたみたいなんです。それをきっかけに大塚さんが焼き物の修業をするようになったとか」
伊藤さんから聞く話と鳳台院の内山さんから聞く話がほぼ同じだということは、鳳台院の寺子屋に通っていた大塚啓三郎が、21世和尚である雄山大周和尚に連れられて久野陶園に通ううちに、大塚自身が焼き物の技術を習得。その技術を持って、益子で開いた窯が益子焼、ということになる。

なるほど、これで笠間焼と益子焼がつながった。

心晴れやかな気持ちでわたしも陶芸体験をすることにした。



工房の中には炉が切られ火が焚かれていた。炉の側に久野陶園のマスコット犬ガブちゃんがのんびりと座り、初めての陶芸体験にあくせくするわたしを眺めている。
初心者にも関わらず、器の表面を削いで形を整える面取りの鉢を作ることにした。
粘土で底を作り、その上に紐状にした粘土を輪っかにして積み上げていく。積み上げた接着面を指でならしながら立ち上げていくのだが、これがなかなか難しい。
とはいえ、何も心配することはない。参加者一人ひとりの様子を見ながら適宜アドバイスと指導をしてくださる伊藤さん。
あ、もしかしたら、大塚啓三郎も、こうやって指導を受けたのかもしれない。
もちろん陶工修業と体験の違いは歴然としてあるわけで、こんなに楽しく指導を受けていたとは思わない。それでも技術と共に、土と向き合うことの醍醐味を大塚啓三郎はこの地で存分に味わったのではないか。
粘土紐さえまともに作れない自分に辟易しながらも、彼のことを思ったのである。

さて、次は、益子に行ってみることにしよう。

TOP